性暴力表現に対する"女性である私"のズルさについて

最近知り合いから、私がグロ趣味、虐待、性的虐待描写のある作品を愛読していることを批判的に指摘されてしばらくそれについて考えていました。

 

性暴力表現に対する"女性である私"のズルさについて。

私はサディスティックさや他人をコントロールする事への欲望もたしかにもっていて、実際虐待者に自分を投影してフィクションを楽しむ事があるにもかかわらず、自分が『女性』でえがかれる虐待者の多くは『男性』の姿をしている事を根拠に簡単に「私は虐待者にならない」と思うことが出来ること。実際はそうとは限らないけど切断処理が容易なのだ。

そして時には「女性である自分は加害者でなく被害者側にある」…と思い込むことも出来る。そうするとそのフィクションを”サディスティックに”楽しみながらその作品を根拠に「男性の攻撃性」を非難するという奇妙なことも出来てしまう。

 
性暴力表現に敏感でなおかつその表現にさらされつづけた男性は私がやるような便利な切断処理を出来ずに「その表現を楽しむ自分」を責めたり異常だと思ったり「自分が加害者になる可能性に苦しむ」場合も結構ある…。例の「内なる加害性」ってやつね。
 
私も自分の趣味とその加害性を指摘されて、あらためて「異常なのでは」「これは改めるべきだ」等々しばらく悩んだのだけど、一応結論が出た。
 
これはよく言われることだけど、女性向けのエロ作品には「レイプ物」がとても多い。でもだからと言って多くの女性に「レイプ願望」があるわけではない。
「それぐらい強烈に求められたい」っていう欲望を表現したファンタジーだから。
同様に「虐待者」に感情移入する場合も大体において「それぐらい強烈に誰かを求めたい」っていうファンタジーなのだと思う。ちょっと大雑把だけど;まあ少なくとも私の場合はそういう理屈で説明できる(だって誰かの事をムチでしばきたいかっていうとそんなこともないもんな)。

(あと、いわゆる和姦な作品はどうも感情移入するまでがまだらっこしいのだ;侵害性が高い方が良し悪しはともかくインスタント;)

 

そもそもサディクティックさや他人をコントロールする欲望なんて多かれ少なかれみんな持っている。

作品を楽しむことと、実際その行為をすることの間には大分距離があると思うな。

…実際の犯罪とフィクションに全く関係がないとは言えないけどもね。